新規事業策定
【講演録】新商品に困らない!売上20億から165億への成長~革新と成長を続けるグローバルメーカーの事業戦略~ 取締役会長 小原勉氏 株式会社工進_中編
2024.07.31
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1.工進の歴史と成長
工進75年の歩みを書いてます。 私の父は、1948年、75年前にいとこと一緒に、戦争から帰ってきて、何か事業を始めたいということで会社をスタートさせました。最初はここに書いてますように、機械修理や手回しボール盤そんなものを作ったんですが、1950年にご縁がございまして、ポンプとの出会いができました。 一応やっぱりそちらの方へお店訪問してたんですね。そうするとある人からこんな本があるけども、これ作ったらどうですかと、そういう声掛けをいただきまして、ポンプをある一つのポンプを作り出したと。それからいろんなポンプを開発したわけですが、私は1915年に大学を出まして2年間、その会社にお世話になりまして、5年ほどいろいろ外部で勉強させてもらおうと思ってたんですけども、当時はなかなか人手が足りない時代でございましたから、もう帰って来いと、こう言われましてこの工進に1965年に入社をしたということでございます。 そして私の父は、高度成長期でございましたから、お客様に喜ばれる安くていいものを作りたいと、そういう思いが必要もございまして、工場でいかに無駄のないコストでいい品質の良い商品を作るかと、そういう面で一生懸命取り組んでまいりました。
社員の活躍と書いてますけれども、当時は九州とか山陰とか、そちらの中学校を出た方が集団就職で東京とか大阪で2年働く場所を求めてくる時代でございました。鐵工所ですから普通は、男子の、若い男の子を採用するのが普通なんですね。若い男の子も採用してましたけれども、私の父はそれを若い女性でその仕事をしてもらいたいと。ですから当時集団就職で都会でてくる、地方の女性はほとんどが紡績工場へそういう防水工事を空輸その女性をですね、学校の先生にお願いして工進に紹介していただくと。そして女子寮も作ったり、そんなことをして、そういう若い女性で、もう浙江省で仕事ができるように、そんな仕事のさせ方をしてました。
それと私の地位はもう50年ほど前の話ですけども、当時は経済の成長期でしたから、大企業の管理職などの方などは、もう朝早いね、うちからも子供さんが、いらっしゃって、もう子供が寝てる間にもういいようで、そして夜に帰ってくるのは、もうまたそれも子供さんが寝てる、そんな時間に入ると。そんなその大企業のその管理職の、あの姿を見て、私に言いました。 私はね、ああいう大企業のよう、社員を犠牲にしてまで、会社の成長発展は望まないと。やっぱり人間はやっぱり睡眠は8時間睡眠、そして仕事も8時間、その他の時間が8時間、やっぱこういうリズムをね、きちっと守らないかんという考え方を、持っておりまして、夜の7時あるいは8時ですね、たまにですね、幹部の方へ用事があって電話をしますね。そして後ご主人が出なかったらややこしい。まだ帰ってませんと。もしもそういうようなね、電話になればね、明るいね、その人を呼んでね。 家にはもう会社が終わったら、帰って、そして子供さんがいらっしゃったら、子供さんと一緒に食事をして、家族を一緒に夕食をしてですね、子供の教育をせないかんと、家庭が基本やとこういう強い思いを持っていた実施でございます。
2.海外展開と財務体質の改善
私が会社へ入りまして、要は父と一緒に仕事をしてた期間が結構長いんですがね。私の父はもうもの作り、品質の良いものをいかに安く作るかということで、非常にその工場の方に関心ございましたから、私は帰ってきまして、工進に入社しまして、要は父が、そういう工場の方見てくれますから、主にもう販売営業関係、そっちの仕事を主にやってまいりました。当時、予算依存でしたから。問屋さんにもう依存しない経営をしていきたいということで、地方に駐在員事務所とか、なんか色を出しまして、地方の販売店を開拓するとか、国内ではそんな営業活動をしてそして昭和48年度末に石油ショック第一次オイルショックが起こりました。 石油の油の値段が一挙に4倍に上がったもんですから、もう国内の経費は、要はガタッと落ち込んで、もうお客さんと訪問しても、なかなか商品買ってもらえないと。そんな時期がございました。 そこでも私はもう国内回って、お客さんに販売お願いしても、この当面当分難しい。そんな方に解釈をいたしましてそれから3年間ですね、世界中もありましたし、世界の市場を開拓、若い私は英語も十分に会話でできませんし、若い20歳代の社員1人を連れて、2人一緒に、3年間で300日強、世界中周りました。幸いに油の値段が大きく上がったもんですから、中近東、今のドバイとかイラン、イスラエルとか、イランとかイラクそれからサウジアラビア中近東諸国を主体に社会13年間でもありました。 それでおかげさまで、海外の売り上げが大きく伸びてまいりまして、売り上げの約半分が、海外売り上げで占めるぐらいまでなったんです。
それはそれで良かったんですけどね。 今度はですね、1991年頃、急激に円がドルに対して大きく値上がりをいたしました。500円ちょっと数字を覚えてませんけど1ドルですね。80円ぐらいかな、大きくですね円高になったんです。 そのときは、この日本の本社工場で作って、そしてその輸出をしてましたが、ですから、もう為替が大きく円高に振れたもんですから、そのときに私は大変悩みました。せっかく海外でお客様もたくさんできたのに、このまま放っておけば、もう海外の売り上げはもうなくなってしまうと、そういう危機感を持ちました。 何をしたかというと、さしあたりの売り上げを維持するためには、海外に生産拠点を、作るしかないということで、タイのバンコク、それからその翌年中国の広東省、ご縁がございまして、工場建設することができました。 当面のそれで売り上げを、何とか維持はできたんです。そこでやっぱり、メーカーとして、大変な時期が巡ってくるときあると、何に力を入れてどうしていけばいいのかなとというその思いを持ちまして、その結果やはりいつの時代にも、お客様に喜んでいただく商品開発で、これに力を入れるべきだという自分なりの答えを出しましてその地方がなくなって会社からの退職金もいただきました。 もうその退職金を全部商品開発の研究所、もうその建物にそれを投資するということで、その年ぐらいからさらに本格的にですね、商品、新商品の開発に力を入れるという方に経営をするようになりました。
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